HighlySensitivePersonsの「不健全な家庭環境」の背景にあるもの

Highly Sensitive Persons訳すと「敏感すぎる人」
通称HSPは「不健全な家庭環境」で精神的に不安定に成長してしまい、
その「不健全な」とはDVや虐待というよりは、
親が子供に良かれと思ってしていることが原因らしいと
前回書きました。
(「HighlySensitivePersonsは育ち方でずいぶん違ってくるみたいです」参照)

ここまで改めて資料に目を通して思いましたが、
私も「かなり」問題のあるHSPのようです。
人生の困難の多くはHSP、
もしくは成長過程に起因するものが多いようだと思います。

医師は「HSPの背景にアダルトチルドレン(AC)の問題がある」と
おっしゃっていました。
ACとは生育過程に問題があって大人になりきれない人のことで、
精神的、あるいは対人関係などにおいて困難な状況になることが多いようです。

私も15年ほど前ACのカウンセリングを受けました。
ACは一時期もてはやされましたが、
その後精神医学会では「親のせいにしても問題は解決しない」と
主流の考え方ではなくなったようです。
私もカウンセリングを受けた時、
同じことを感じました。

特にHSPの場合はHSPの特性が問題であって、
親には悪気がないように私には思えます。

例えば、
「過剰な刺激」って、早期教育もそうかもしれません。
また、赤ちゃんに声掛けするのは「かわいくて心配」だからです。

それに、
「抱き癖がつくからだっこぜずに、泣きやむまで寝かせておく」は、
昔、私の両親たちの世代は、
保健所などでの乳幼児健診の時に、
保健師さんから言われたことのはずです。

抱き癖以外に、
「独立心を養うため添い寝はしない」
「母乳は栄養がないからすぐに人工栄養(粉ミルク)にする」
と、母たちの世代は本気で信じて実践していました。
私が長男を育てた時も、
それが正しいのだと信じて疑わずに「アドバイス」していました。
私も長男の時はそれが正しいのだと思っていました。
保健師さんも、確かにそう言っていました。

現在ではこれらすべてが間違いとされています。
「できる限り抱っこ、気を付けて添い寝、できれば母乳」が、
今のセオリーです。

私も母たちの世代のセオリーで育てられ、
結果的に大変な人生を送ってきました。
でも、私は親のせいだとは思っていません。

これは大げさなようかもしれませんが、国の責任です。

何故このような指導がなされていたかというと、
アメリカがそうしていたから、
「先進国に追いつけ追い越せ」の時代に真似をしたからです。

ではアメリカがそうした理由は?
一説によると・・・、

アメリカの高度経済成長期に工場での働き手が不足し、
女性を社会進出させる必要がありました。
女性はどうしても出産・子育てで家庭にいなければならない時期があります。
そんな時、とある大学教授が、
「抱っこしない」「添い寝しない」「人工栄養」の
古来よりの方法とは異なる育児法を提案し、
これが、女性を働き手としたい政府によって広められたのだそうです。
これによってアメリカは豊かな国になりました。

けれど、そうやって育てられた子供たちが10代になったころ、
社会は荒れました。
家庭内暴力、不良の増加、若すぎる望まない妊娠・・・。
アメリカはさすが利益優先の国です。
これが自分たちによくないとなるとすぐに行動にうつし、
古来の方法に戻すよう指導し始めました。
ちょうど高度経済成長も終わっていました。

しかし、間違った理論は現在にも影を落としています。
多くのACを生み出し、その世代が親になり、
親として不十分なまま子育てをしなければならないのですから。
それはアメリカでも日本でもそうです。

私がそのやり方がまずかったと知ったのは、
2人目の子が2歳のころでした。

平井信義著「心の基地はお母さん」を読んだからです。
保健所の指導はまだ追いついていませんでした。

私は4人の子がいますが、
一番上と下が14歳離れているので子育て期間が長いです。
保健師の指導は4人とも違うことを言われました。
今は私が一番下の子で受けた指導とは違うことを言うようです。
勿論保健師さんはそれが使命だと信じてやっていることだから罪はありません。

それが間違いだと知っていたなら、
もっと長男・長女をいっぱい抱っこしたかった。
ダメだと思いつつたくさん抱っこしたけれど、
どこか罪悪感がありました。
悔やまれてなりません。

きっと、私の両親もそうだと思います。
ましてや私の両親は私がHSPだとは知らなかったのです。

多くの人は迷いながらも、
子どものためによかれと思う方法で子育てをします。

HSPの場合はそれがよくない場合もあるようです。

でも、ある程度成長するまでHSPかどうかはわかりません。

「じゃあ、一体どうしたら良いのか?」

次回はそれについて書こうと思います。