40

40歳になって少し経った年の瀬に
私の頭に「夜明け」という言葉が浮かんだ。
そう、来年は夜明けの年になる。そう直感した。

たくさんの辛かったこと、
苦しかった、悲しかった、悔しかった出来事達。
私は小学校1年生の頃から
「私はなぜ、この星の、この国の、この両親の元に生まれて来たのだろう」
と思ってきたし、
このような痛みの多い体を持って生まれたのも
何か意味があると感じてきた。
だから「夜明け」とは
良い事ばかりが起こる俗に言う幸運期ではなく、
その意味が判る年なのではないかと考えている。

辛いことや苦しいことがあっても、
私は最終的には人を恨んだり、憎んだり、
ましてや復讐することを選ばないで来た。
もちろんその出来事の直後には私を苦しめる感情に
おぼれそうになったこともある。
「私の中にはオニがいる」
そう思った時期もあった。
けれどその中で私は自分と向かい合い
その出来事の意味や原因を自分の中に探してきた。
その内省性こそが私がHSPだとする根拠の一つらしいのだが、
自分がHSPだと知るずっと前、
小学生の頃から自分を見つめてきた気がする。

だからこそ夜明けとは幸運や名誉、金、
その他の私の「外」にあるものではなく、
私が何をどうして行くかという私の「中」にあるものが現れてくる年なのだと思う。

ずっと不思議に思ってきたのだが、
私の人生には幼い頃から
「私をどうしようもなく傷つけようとする人」が近くにいた。
その人と離れたと思ったら、また新しい人が現れる。
あるいは新しい人が現れたら、それまでの人がきれいさっぱりいなくなる。
どうしてこんな人にばかり会うのだろうと思い、
自分が良くない人間だからそう言う人たちに巡り合ってしまうのだと自分をせめた。
しかし今はそれらの人たちもつらかった出来事も、
私には必要なものだったのだと思えるようになった。

そのとき何よりも苦しかったのは、
怒りや憎しみ、悲しさ、苦しさ、嫉妬、後悔、猜疑心といった、
良くない感情を抱いてしまうことであった。
最近では多くの人がマイナスの感情を感じる自分を人知れず嫌悪するものだと知った。
また、そのような出来事に遭遇したのだから、
そう感じるのは当たり前のことだとわかるようになった。
大切なのは、そう感じた後、
自分の心にどう整理をつけ、何を得て、
どうなりたいのかを見極め、
どんな決意を持って前に進むかであると思う。

まあ、知るのと、思うのと、そのように生きるのは、それぞれ違うことだが。

「夜明け」には長く暗い夜が必要なのだと思う。

けれど私は長い夜にも美しく輝く月や、
励ますように瞬く無数の美しい星が、
その空にあったことを知っている。
私はそれらの「光」にとても、深く感謝している。

今は、夜明け前。
陰と陽の境目のどちらでもない静かな時間。

どうかこの「夜明け」の道をおごることなく着実に歩いていけますように。
いや、しっかりと歩いていこう。

祈るように私の中の私と約束をしよう。
2010、2、26

 

 

ブログに添えた文章

 この文章を書いてから1年半程が経ちました。
夜明けの太陽はゆっくりとしか昇らぬものです。
それでもやはり「夜明けが来た」と言う実感があります。


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