痛み

物心ついてから、私は常に体のどこかが痛い。
肩こりとか、腰痛とか、
そういうのとはまた違って、体のどこかが痛い。

その痛みは日によって、場所も痛み方も違う。
例えば昨日は右後頭部に鉄パイプのようなものを
強く押し当てられている痛みだったし、
今は頭を締め付けられているし、
左後頭部に痺れがある。
ほかには手や足の骨がたてに裂かれるような痛みのときもあれば、
体のどこか一箇所に針を何度も刺されているような痛みのときもある。
背中が苦しいのは肩こりの延長だとか、
尾骶骨がいたいのは腰痛や坐骨神経痛の延長だとか考え、
それらをはずしてもやはり、体のどこかが痛い。

子どものころ、
何度か母親に病院に連れて行かれたような気がする。
が、当然、現代の医学では「気のせい」で終わるし、
おそらく「母親の愛情不足」とか、「甘やかしすぎ」とか、
その都度母親が何かいわれていたような気がする。

よく、「肩がこって痛い」とか、
「○○を怪我していたい」とか、
人が言うのが不思議だった。
私は常に肩が凝っていていたし、
痛くない日がなかったから、
痛いところのない人が
なにかのきっかけで痛くなると言うのが良く判らなかったのだ。

だから30代後半で普通の人は普段は痛くないと知ったときは
軽いショックと後悔を感じた。
なぜなら、自分以外の人がどこかが痛いと言っても、
一応社交辞令で「大丈夫?」といいはするが、
「痛いのなんて当たり前なのになんで言うのだろう?」と思っていたのだ。
自分の子どもに対しては
「体のどこかが痛いなんて当たり前でしょ!我慢しなさい!」
としかりつけていた。
なんと思いやりのない人間だったことだろう。

普通の人は病気や怪我や慢性の症状がないなら、
痛みはないものだと知った今、
私はその痛みに共感し、
いたわることが出来るようになった。
「知る」とは偉大なことだ。

痛みがないのが普通だとして、
それなら痛み止めを飲めばいいのかもしれないが、
私は胃が弱いらしく、
我慢しきれずに痛み止めを一度でも飲めば、
その後、一ヶ月近く胃薬を飲まなければならなくなる。

今の望みは只ひとつ、
「一日でいい、痛みのない体というものを体験したい」ということである。


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