釈迦と龍の船

それがいつの季節だったかわからない。
私は、スピリチャルな物事を否定と肯定、
いや、受け入れるか、拒否するかの狭間にいた。

当時まだ小学生だった長女を剣道の練習に連れて行くため、
車で送っていった夕方のことだった。
晴れた日で、西の空が赤くなり始めた時刻。
長女は車に乗ったとたん、かくん、と眠ってしまった。
思えば、私がそういう体験をするときはほとんど長女と一緒だ。

車で走り出してすぐに、
「あ、空に何かいる。」
と、思い、車を走らせつつ空を見ていた。
空は一見変わりないように見えたが、
はっきりといつもとは違うことが判る。
なにがどうと、言葉にするのは難しい。
そういうものは理屈を離れたところにあるのかも知れない。

私の住む高台から下る坂の途中からは、
とても美しい景色が見える。
広々とした平野の向こうには、
視界の端から端まで高くそびえる山脈がつらなり、
それだけで神々しい景色と言える。
が、その日は山脈の上部に雲が厚くかかり、
その雲が、まるでもう一つの陸地のように平らになり、
夕焼けで珊瑚色に染まっていた。

はじめに目に付いたのは視界の右端に、
龍の頭部型の船首を持つ船のようなものが見えた。
瞬間的に船だとは思ったが、
その龍型の船にははっきりと魂が感じられた。
そして、平らな雲の陸地をたどり左側に視線を移すと、
二人のお釈迦様がいた。
一人は立ち左手を胸の前、右手を顔の横に上げていた。
もう一人はその前にひざまずき、頭をたれていた。
私は神道の神主の家系に生まれたし、
仏教をはじめとする哲学や思想、美術などに興味がまったく無かったので、
それが何を意味するのかわからない。

それを見た瞬間、私は、
「うわっ、見ちゃった。」
と、思い、
立っているほうのお釈迦様も、
「わ、見られちゃった。」
と、言って一瞬のうちに風に乗って消えてしまった。
私とそのお釈迦様たちの距離は何十キロメートルもあったはずだが、
その意思のようなものは距離を隔てていないかのように伝わってきた。
立っていたほうのお釈迦様が消えた瞬間、
もう一人のお釈迦様も形はあるものの、
魂を持たぬものになったように思う。
更に右手側、
少々手前には鳳凰が飛んでいた。

メンタルヘルス的な見方をすれば、
アスペルガーの私は精神的におかしくなっていて、
そういう幻覚を見やすくなっていたともいえるかもしれない。
すべての物事は、視点をどこに置くかによって意味が変る。
それが、幻覚なのか、何かの啓示なのか今も意味はわからない。
しかし私にとっては、あまりにリアルで、
気のせいなどとはとても思えない出来事だった。

私はそれをただ目の前で起こった出来事として、
意味などを考えず受け入れた。
受け入れようとした、では無く、ただ受け入れた。
私が精神を病んでいたのか、
スピリチャル的に特別な意味があるのかそんなことはどうでも良かった。
「あったことは、ただ、あったことに過ぎない。」
それは、春に花が咲き、
秋に山々が赤く染まるのと同じ出来事でしかないのだ。
そして、ここに、ただ私が存在するのと、同じことだ。

スピリチャル的なことを肯定するにはそれからまたしばらくかかったが、
今、あの出来事を振り返って、
私は今の私につながるとても大切な感覚を得たと感じている。

 

 

 

ブログに添えた文章

いわゆる霊感と言うものがあっても、
私がヘタレなせいか幽霊など、怖いものは見えません。
(いや、見えることもあったり、
感じたりもするけど、気になるほどではありません)
どちらかと言うと龍やお釈迦様などが見えたりします。
(カテゴリ・スピリチャル「Ron」20111年5月18日参照)

霊感の強いいとこには強く守られていると言われました。
が、私はどんなことが起こったか?より、
それをどう捉え、私がどう感じるか?のほうが大事だと思います。
そこに、私の人間性が現れていると思うからです。