暗闇の中の光

あるとき、薄ぼんやりとした頭でも、
否応なく気付く時が来た。
私はこの人生において、
人が選ばないほう、
近付かないほうばかり選んで生きてきてしまったのだと。
意図してそうしたのではなく、
何度も失敗を繰り返し、
沢山の痛い目を見たからこそ
慎重に選んできたはずなのに、
いつも自分を苦しめるような選択をしてしまっている。

そう気がついた時にはもう、
人生は折り返し地点まで来ていた。

人が自分の大まかな人生と、
体を選べるのだとしたら、
私は間違いなく、
人が選ばないようなものを選んで
生まれてきたと言うことになる。

私は闇の中に立っていることが多かった。
周囲にはどこかに暗闇を抱え、
その割合が人よりは多いような人がいた。
彼らは私を意識的に、あるいは無自覚に傷つけた。

過去には、神仏を恨んだこともある。
「助けて」と、心の中で繰り返したこともある。
過去の自分の選択を悔やむ日々が繰り返された。

賢い人なら、その暗闇には近付いたりしない。
そして、私も人の親としてなら、
闇に近付いてはいけないと子に教えるだろう。
しかし私はその分別を超えて闇に歩み寄ってしまうのだ。

何故、私はそうしてしまうのだろう?

考え続け、私は答えを見つけた。
かんたんだ。
暗闇は私にとって、懐かしく慕わしいものであるからだ。
私自身の中には先天的か後天的かわからないけれど、
深い闇が存在していた。

だが、ただ闇に近づいていたわけではない。
その暗闇に目を凝らし、
闇の中にかすかな風にさえ揺らぐような
ささやかな光を見つけ出そうとしてきたような気がする。
暗闇を抱えた人の中にも、この私と私の人生にも、
確かにそこに光があることを確かめたかったのだと。
暗闇の中の小さな光を、まるで宝探しのように、
探し当てたいと切望していたのだ。

それらの光は本当に小さく、
私を時折温めたとしても、
圧倒的な暗闇が私を傷つけた。
暗闇は私を凍えさせ、疲弊させ、
切り刻んできた。
私はそうなってからようやく、
そこから逃げ出そうとするが、
気がついたときにはどうにもならなくなっている。
それでも何度でも私は懲りずに暗闇を選んできた。

光を必ず見つけ出せる。
そして、そこに自ら光を灯すことも出来る。
そうしたくて、そうなりたくて、
私は人の選ばぬほうばかり選んできたのだと思う。

闇の中の光は、灯火は、
頼りなく、今にも消えそうでいて、
明るく温かい。
それは小さな灯りだ。
けれど、圧倒的な闇を押しのける力を持つ。
暗闇と光、その両者があって初めて、
人は人となるのだと、
今、ようやく気が付いた。
それを知るために私は生まれ、生きてきて、
これからも生き続けるのだ。

この体もまた、
この「生」にあったものなのだろう。
痛みと苦しみが多いからこそ、
肉体的にあるいは精神的に
そこから解き放たれる瞬間を知るために。

二年間、私は自分の中の森を歩いた。
「暗闇」と「光」は何度も繰り返し現れた。
かくれんぼをしながらも、
見つけられたがっている子どもの様に。
ようやくそれを見つけた今、
私は森を抜けて旅に出た。
今度は私の知らない私を見つけるために。
そして本来の私の体を取り戻すために。
この旅は長くなりそうだ。
実はもうずいぶんと遠くへ来たような気がしている。
探し続けることで、新たな木が加えられ、
私の森は豊かに広がっていく。
道に迷うこともあったけれど、
私は「私の中の森」を振り返り、また再び歩き出す。
すべての道はこの森に通じていると思い出すからだ。

「私の中の森」は暗闇と光を内包し、
今も静かにここにある。

2011.12.3

 

 

ブログに添えた文章

このブログをUPするにあたり、
何度も自分の書いた文章を読み返しました。
「私はなぜこのような人生を送っているのか?」
その答えを見つけたくて始めた森歩きは、
私に一つの答えのようなものを与えてくれました。
この結論は、もしかしたらまだ道の途中かもしれません。
それでも、今はこの結論に満足しています。


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